森永ひ素ミルク中毒事件 |
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1.事件の発生 1955年(昭和30年)の春から夏にかけて、西日本一帯で人工栄養児の間に原因不明の病気が集団的に発生しました。これは、1955年4月から8月の間に森永乳業徳島工場で生産された粉乳の中に、大量のひ素化合物が混入したことが原因でした。 ひ素は乳質安定剤として使用した第二燐酸ソーダに含まれていました。粉乳中のひ素化合物の濃度は乳児が飲めば急性ないしは慢性ひ素中毒を起こす量でした。 事件は岡山大学小児科教室の浜本教授らによって、医学的分析の結果、8月23日にひ素中毒によるものとして公表されましたが、乳児を持つ親たちが医療機関に殺到し、日本中がこの事件で大騒ぎになりました。 被害児の数は、1956年6月9日の厚生省発表によると、12,131名にのぼり、そのうち明らかにひ素中毒によると認められた死亡者130名という、世界でも例をみない大規模な乳児の集団中毒事件でした。 2.事件当時の被害児の症状 中毒時の症状は、ほとんどの例が発熱し、睡眠不良、不機嫌、咳、流涙、下痢、嘔吐等の症状から始まって、皮疹、色素沈着、肝腫、脱毛を認め、さらに腹部膨満、貧血など典型的なひ素中毒症状を示しました。飢餓・脱水状態に陥った乳児も多く、 中毒が進むと腹水や黄疸が出、痙攣発作や脳症を思わせる症例もあって、これらは予後不良でした。 当時、死亡した乳児についての剖検所見が数多く報告され、共通な主病変として内臓諸臓器における高度な充血やうっ血、散在性点状出血、血管壁の水腫および変性、諸臓器組織内および体腔内における奨液の濾出、各種臓器における退行性変性があげられています。中でも肝臓、胆嚢、心臓、腎臓、皮膚には高度に、膵臓、リンパ節、脳、骨髄、消化管、内分泌諸臓器には中等度ないし軽度の変化が認められ、また、肝臓、頭髪、骨、腎臓、脾臓、腸、脳などからひ素が検出されています。 ひ素の人体に及ぼす作用は、病理学的には毛細血管や小動脈の破壊とそれによる出血のための組織の退行性変性が中心であり、実質細胞への影響は比較的軽度であるとされています。 これらの症状は、ひ素ミルクの飲用を中止すると、かなり速やかに軽快しました。BAL(ジメルカプトプロパノール)などSH基をもつ薬剤を使用した場合はいっそう効果がありました。ひ素は、他の重金属と異なって、比較的早期に体外に排出される特徴があり、飲用を止めた2〜3ヶ月後には毛髪を除く人体内では検出できません。 3.事件の「解決」 被害児の親たちは「森永ミルク被災者同盟全国協議会」に結集して森永乳業に原状回復と補償を求めましたが、交渉は難航しました。厚生省は、学識経験者5人に委託して「五人委員会」を設置し、その「森永粉乳中毒事件の補償等に関する意見書」に従って事件の解決をはかりました。親たちにとっては満足した解決ではありませんでしたが、当時の情勢から結局受諾せざるを得ませんでした。子供たちの将来に不安を持った親たちの要望によって、厚生省は1956年3月26日に公衆衛生局長名で一斉検診の実施を指示、通達し、事件発生からほぼ1年後に全国各府県で実施されました。 しかし、その治癒判定基準は、@一般症状が消失している A肝腫が2横指以下 B血液所見が回復しているの三点で、極めて簡単なものでした。その結果はほとんどが「全快」の判定を受け、親たちが最も心配した後遺症についても「ほとんど後遺症は心配する必要はないといってよかろう。今なお引続き治療を受けているものは、後遺症ではなくして原病の継続である」(「五人委員会」意見書)との判断が下されました。 こうして事件は、医学的にも社会的にも、一応落着し処理されたかのようにみられました。また、1955年から1956年にかけて多数みられた中毒症例の雑誌報告も1958年以降には報告されなくなり、その後一部を除き後遣症については考慮されることなく、また十分な追跡と健康管理も実施されずに経過しました。 4.丸山報告―「14年目の訪問」― ところが1968年に、保健婦・養護教諭らが大阪大学医学部衛生学教室の丸山博教授の指導で被害児の家庭を訪問した結果、森永ひ素ミルク中毒被害者に後遺症が存在する可能性が指摘され、公衆衛生学会その他で発表されました。日本中は再び大騒ぎとなり、社会問題として取り上げられるようになりました。 多くの医学関係者の協力で各地で調査検診が行われ、中枢神経系の変化(脳性マヒ、てんかん、知恵遅れ、微細脳障害症候群など)やひ素中毒に特異的な皮膚変化(点状白斑、角化症)が−部の被害者に存在し、身体的・心理学的発達が同年齢の非中毒者に比べて遅れている者が多いことが明らかになりました。 世論の強い支持もあって、各自治体、公衆衛生学会・衛生学会・小児科学会など多くの学会の協力があり、各地で自治体検診が実施されて全国的に実態が判明してきました。また、疫学的にも後遺症の存在が次第に明らかになりました。 5.事件の真の解決―三者会談と「ひかり協会」設立― 丸山報告を受けて、1969年11月に全国の親たちの組織である「森永ミルク中毒のこどもを守る会(現森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会、以下「守る会」)」が発足しました。「守る会」は賠償要求ではなく、子供たちの健康回復と社会的自立と発達を求め、そのための医学的究明と恒久的対策を要求して運動し、森永乳業や国と交渉しました。多くの専門家や世論の大きな支持を受けつつ、国(厚生省)と森永乳業を相手に民事訴訟も提訴するなど運動を進め、独自の「恒久対策案」を作成してその実現を迫りました。 その後、国(厚生省)の呼びかけで1973年「守る会」と森永乳業を加えた三者による話し合いが始められ、同年12月に被害者救済に関する5項目からなる「確認書」が締結されました。その内容は、「守る会」の恒久対策案を尊重し、その考え方にもとづいて三者がそれぞれの立場で協力し救済機関を設立して被害者救済に努力することを約束したものです。 森永乳業は事件の責任を認めて救済の義務を果たすこと、国は救済機関の要請により行政協力することを約束しました。 ひかり協会は、このように国、「守る会」、森永乳業の三者の合意を基盤に、全被害者の救済をはかるために1974年(昭和49年)4月に設立された公益法人(財団法人)です。 「守る会」が選んだこの“三者会談方式”は、すべての損害を金銭賠償として解決をはかる現行法制度の公害補償とは異なり、それでは解決しえない恒久救済を求めたものです。したがって、ひかり協会は被害者の原状回復を基本とし、社会的自立と発達をはかるために健康管理、医療、介護、生活保障、教育、就労などの救済事業を実施しています。 |
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